塗りかえることの続き

これは一つ前の記事の続き。

 

coyotee.hatenablog.com

絶え間なく、というのは言い過ぎだった。それでも、今までうんうん唸っていた時を読書の時間に変えたというのは事実と言える。貪るイメージで、依存的なところは変わっていない。

坂口安吾の作品を読んだら、好きになっていた。文学と、私のことをよく知っている人がこれを聞けば、「やっぱりな」「似合ってる」「またこういう系か」と呆れにも似た腹落ちがあるのだろうなと思ったりもしている。『破門』はニヤニヤしながら読める面白さなので、もっと早くに読んでおけばよかった。偶然に出合った『私は海をだきしめていたい』、こういうのが特に好きだ。

短い期間で読書を積み重ねていると、頭の中を常に最新にしていくことについて、悪くないと思えるようになった。今まではそうではなかった。

自分は、数少ない思い出を大事にしていて、それを至る所で披露していた。たとえば、誰々の誕生日を憶えているとか、あの人が言った印象的な言葉を憶えているとか("全方位外交"だと、愛をもって揶揄されたこともある)。こういうものはおそらく大事なことだ。だけどたぶんそれは、ちょっとしたアクセントとして使うほうがいいかもしれない。
「あなたの誕生日を憶えています!」「こういうことを言ってくれたのを憶えています!」と披露したところで、急なことに相手は喜びよりも驚いて、ちょっと引いていたことのほうが多い気がしているからだ。「なんで誕生日を憶えてくれてるの!すごい!」と、同じ人から数年連続で言われることも珍しくない。このとき実は「私が憶えていることを、相手が憶えてくれていないこと」が寂しかったりもした(ここまで書いて、ストーカー気質が明確になってきた)。

でもこれは、私が頭の中を更新していない、塗りかえることをさぼっているからこそ起きた、当たり屋的事故だったのだと思い直した。だって、相手には日々の生活の色々があって、目標も立てて、たくさんの人と対話をして、更新され続けて、ちゃんと塗りかえている(たぶん)。こんなことは、難しいことではなく、普通のことなのかもしれないが……。

たくさんの作品に触れることを「インプット」と言うならば、私のしているここ数日間の行為は「脳内、思考の換気」くらいのものだ。題名を「塗りかえる」にしたが、やってみると「換気」のほうが近い。続けられるまで続けてみたいと思う。新しいものに触れることで、こうやって自分が作文するのにも役立ってくれているのはかなりのメリットだ。