存在認知の話

まずは私の現状から。もともと仕事を頑張っているほうではない。頑張りたいとも思っていない。最近は業務も落ち着いてしまっていて、上司からはほとんど放置されている。「いやいや、仕事なんて自分から探すものでしょう。上司や環境のせいにしてたらよくないよ」という声も聞こえてくるが、「それはそうだと思っているよ」と一筆書いた上で一旦無視させてほしい。

2年と少し前に今の職場に転職してきた。訊かれてもいないが、転職の経緯はあまり言いたくない。前職とは業界も職種も異なっていて、未経験からのスタートだった。で、今でも未経験レベルの仕事しかできていない。また悪魔の囁きが聞こえてくる。「ラクならよくない?しかも上司から放置されてるって、めんどくさいこと言われないんだからいいじゃん」。そう思えたらいいのだけど、結構堪える状況なのだ。どういうことかというと、自己肯定感や自己有用感がダダ下がりする。思考力がなくなる。抑うつ状態が常になる。ハードワークでそういう状況になってしまうのは理解が容易いと思う。だが、放置されていて抑うつ気味になっていくことには疑問を感じる人はいるだろうし、甘えだと思う人もいるだろう。

ちなみに私の上司は40歳を超えているみたいだけど、私が初めての直属の部下らしかった。だから放置されてしまうことは仕方がないのだろう……とは思いたくないし思っていない。

ここからは私の被害妄想とも思われるフェーズに入っていく。

上司に放置され続けると、ほかの社員からも自分の存在を認知してもらえていないのだろうと思い始めてしまう。今の職場は原則週5でオフィスに出社がルールだ。大人しめの人が多く、執務フロアはシーン……としていることが多い。エレベーターやトイレ前で他の社員と鉢合わせしたりすれ違ったりしたとき、挨拶がないことがある。私は今まで愛想だけでやってきたみたいなところがあるから、必ず目元をにこやかにして挨拶をするようにしている。「敵じゃないですよ、どうも」という気持ちがあって、反射的にやっているところもある(まあ自己防衛的なところもある)。それにもかかわらず、目を合わせてくれない人もいるし、「なんで俺に挨拶してきたの?」みたいな驚きの目をしながら会釈で済ませてくる人もいる。さすがに立場が上の人になると、「最近どう?」とか「お昼何食べるの?」と話しかけてくれるが、7割くらいの社員が前述の通りである。

(余談)

前職では、小さな会社に所属しながら、大きな会社のチームに派遣のような形で投げ込まれ、毎日そこに出社していた。

チーム以外の人は知らない人もいっぱいいたけど、廊下で会えば初対面の人でも必ず挨拶をしていたし、向こうからも返ってきていた。ちょっとしたことでも「ありがとうございます」と言ってもらえて嬉しかった(私の立場が低すぎたから過剰に感謝されていたというわけでもなく、プロパー同士でもそんな感じだった)。社会人って、こんなにちょっとしたことでも敬意を払い合うんだな。すごいな、気持ちがいいなと思っていた。

(余談終わり)

「挨拶を返してくれない人」について誰かに話すと、「その程度の人だからと相手を割り切るのが正解」みたいな答えが返ってくる気がする。私はそこを諦めたくないのだよ。というか、じゃあ、段々とすり減っていっている私の精神はどうすればいいのですかと思う。私は別に、彼らと濃密なコミュニケーションを取りたいわけではないのだ。彼らのことを知りたいとも思っていないし、自分のことを知ってほしいとも思わない。私が体育会系で、元気に挨拶することが是だと思っている人というわけでもない。

心理学でいうところの「ストローク」を欲しているのだ。「ほかの人の存在を認める言動」ということらしい。肯定的かつ言葉によるストロークで代表的なのが「挨拶」だ。私はただ、存在を認めてほしい、というか「nemnemmさんのことを認知していますよ」というサインがあれば十分だと思っている。それだけで、このひねくれた精神は少しほどけるのかなと思うのに、ストロークが活発でない環境に居続けることで余計につらくなってしまっているのだと気づいた。ストロークという言葉を知ったときに泣いてしまった。「挨拶が蔑ろにされている環境にイラついている自分」が、”行き過ぎた真面目”や”マイルール押しつけ気難し野郎”なのかなと思っていたけど、社会生活や、健康な精神でいるためには必須の概念なんだなとわかってホッとしたからだ。

 

▼おまけ その1

「自分や相手の存在を認める」というキーワードですぐに思い出すのがこの記事。

https://keitahaginiwa.com/1248/detail

私が好きなミュージシャン、サックス吹きの横田寛之氏を取り上げたものだ。

取材者である森綾氏が、自分のバンドに横田氏を呼び、セッションをしたときのエピソードが書いてある。

一緒にやらせてもらってわかったのは、横田寛之はとても優しくて厳しい人だ、ということだった。テクニックの差を認識し、それでも他のプレーヤーたちの音を引き立て、なおかつ自分の良さも出すこともきちんとする。全体を見てくれている、気持ちのいいソロ。かといって「どや!」的な音は一切出さない。

 彼は言った。

「セッションは自分がここにいる意味、その人がここにいる意味が、はっきりわかるようにするのが一大テーマ。一緒にやっている人がいてもいなくてもよくなってしまったら、ぼくがいる意味もないでしょう」

私が書いてきた話とは違うけど、セッションは自分のテクニックをひけらかしたり、相手の慣れなさを晒しあげたりする場ではない(そうであってほしい)。「つつがなく楽しくできて、ストレス発散もできてよかったね」というインスタントなものでもなく、お互いが”そこにいる意味”を認め合えるような空間の醸成には、ユートピア感を覚えるし、強く惹かれるものがある。

 

▼おまけ その2

学生のときの先輩が、「俺の存在を認めてくれるのはセンサーで自動開閉するトイレの蓋くらいだ」って嘆いてたのは、哀愁があって結構好きだった。