読んでいる本のはなし

若松英輔さんの本をまた新しく読んでいる。なんでかわからないけど、どこかの時点でファン的な存在になって、これまで何冊か読んできた。今読んでいるのは『「生きがい」と出会うために 神谷美恵子のいのちの哲学』。精神科医でもあった神谷美恵子の著書『生きがいについて』を、若松さんの言葉で紡いだ本。

若松さんの文章は、背中を撫でられているみたいで安心感を得られることもあれば、時に感情を揺さぶられることもある。それがもう心地よくて、今回も勝手に期待して読み進めようと思った。だけど今回は、神谷の文章にひどく惹かれている気がする。一章のはじめに、『生きがいについて』の冒頭部分が引用されている。

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。

こちらもおまけで引きたい↓

きき手がだれもいないとき、または苦しみを秘めておかなくてはならないとき、苦悩は表出の道をとざされて心のなかで渦をまき、沸騰する。胸がはりさけんばかり、ということばはそれをあるがままにあらわしている。

これらの文章を読んだときに、「ああ、もともとの本も読まなければ……」という、嬉しい使命感を得てしまった。読むぞ。

『「生きがい」と出会うために』を買うとき、少しだけ躊躇した(朝、起き抜けにポチったとはいえ)。わたしが漠然とイメージしている"生きがい"は、自分とは遠くかけ離れたものだと思っているし、別に無理して出会う必要もない、としていたものだからだ。

でも、引用されている神谷の文章には、若松さんがよく言っているかなしみがある。生気と深いまなざしもある。そうやって肌に馴染みながらも、なんだか体腔に手を差し入れられて、じかに内臓を触られているかのような感覚になる。そんな、「意味が全然わからない」と言われるかもしれない"ド大袈裟"なたとえをしてしまうくらいの何かがあると思った。本当によくわからないたとえだけど、わりと自分では納得しているのでよい。

この本もまた繰り返し読むことになりそう。