ハワイ(オアフ島)感想戦

ハワイ(オアフ島)に行ってきた。

 

詳細は省くけれど、能動的に行ったのではなく行かなければならなかったので行った。ハワイなんてキャラじゃないし旅行嫌いだからそもそも旅行グッズを最低限集めなきゃいけないし1ドル150円だしで気は進まなかった。

 

1日目。ワイキキに着き、ホテルに荷物を置く。フードコートで昼ごはんを食べてから、チャイナタウンにあるハワイ出雲大社にバスで向かった。イメージする"中華街"とはかけ離れて寂れている。治安が悪いと有名で、実際に少し遠くから男の叫び声が聞こえた。そのままダウンタウンを歩いたりして、その後カメハメハ大王の像を見に行く。リリウオカラニ女王が幽閉されていたイオラニ宮殿のベンチで休憩。ホテルに戻りさらに休憩したあとに街に出て夜ご飯を食べた。

 

2日目。早起きをしてダイヤモンドヘッドへ。「1時間で登って帰ってこられる、そこまで体力は必要ない」とインターネットに書いてあったが普通にきつかった。でも、クレーターなんてなかなか見る機会はないので登ってよかった。お腹が痛くなったので自分だけホテルに戻り薬を飲んでから昼寝をした。そのあとビーチを歩く。真水と海水が混ざっているという「カヴェへヴェへ」に行った。

ここらへん記憶があまりないけれど、屋台みたいな雑貨売り場を歩いたりして、またフードコートでチーズバーガーをテイクアウトしホテルで夜ご飯を食べた。

 

3日目。カイコーヒーでハウスコーヒーをテイクアウト。支払いが済んだときに店員さんが「perfect!」(語尾上がり)って言ってくれるの嬉しい。

 

ワイキキから50分ほどバスで行けるビショップ博物館を1人で訪ねた。JCBカードの提示でちょっと安く入れる。ハワイ王国の歴代の王について展示するエリア、ポリネシア人の生活にかかわるもののエリアなど。ちょうどよく日本語ツアーがやっていたので参加してみた。

同じ敷地内に科学館もあり、"火山"の中に入れてちょっと太陽の塔に入ったときを思い出した。

 

他の人と合流してアラモアナにショッピングへ。みんなショッピング好きね。意識高い系のスーパー・ホールフーズでシーソルトナッツを買う。ウォルマートはホームセンターっぽい。カインズ感。ロスドレスはしまむらだ。

 

4日目。レンタカーを借りてオアフ島の北側へ。ワイキキよりこっちの海のほうが白っぽい。「マノアチョコレート」で板チョコと、試飲したカカオティーを買った。チョコレートの味がするお茶。グリーンワールドコーヒーファームでカウコーヒーの豆を買った。インターネット情報だとシングルオリジンの種類があったはずだがカウコーヒーしかなかった。ブレンドはたくさんあった。

 

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夕方はブルーノートハワイ。タイミングよく上原ひろみのライブがあったので行った。相席になった外国人にちょっと話しかけられたりしてビビりながら会話をした。日本語でも雑談できないのに。「上原ひろみのライブ観たことある?」って訊いて、「ないよ」と言われたので「わたしは2回目です!」と返し、コミュニケーションをとるつもりがマウントを取ることになってしまった(別にマウントじゃない)。

 

ライブは楽しかったが(上原ひろみと目が合った気もするし)、後半はなかなか集中できなかった。ブルーノート東京ではテーブルに置いてあるコースターが伝票代わりになり、公演終了後にお会計エリアに持って行って精算をする。ブルーノートハワイでは演奏中に伝票が机に置かれた。相席の人がささっと処理をしていたのでわたしも演奏中にどうにかしなきゃいけないんだと思って焦った。「チップの記入をするのはどのタイミング?書きかた合っているか不安、クレジットカードまた渡すの渡さないの?」と気を持っていかれた。

ちなみに食事はタコスとノンアルコールビールにした。お店自体のグッズもたくさんあるのでいろいろ買った。

 

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5日目。午前の飛行機で帰る。行きは『バービー』を観た。一緒に行った「バービーピンクかわいい!」って言ったりしている陽キャも帰りの飛行機で『バービー』を観ていたようだがお口に合わなかったみたいで途中からバラエティ番組を観ていた。わたしは『テネット』を観ようとしたがどうしても眠くなって無理だったのでちょっと寝てから『VIVANT』を観ることにした。7話の途中までいけた。こんな過激(?)なのが流行ってたのすごいね。

 

他人に合わせて慣れない早起きを連日したのでめちゃくちゃ疲れた。ハワイは画素数が高くて視力がよくなった気がした。飛行機は体感時間短い。おわり。

江古田のコーヒー屋さん

この記事は Coffee Advent Carendar 2022 23日目の記事です。

 

今年の夏、5年半住んでいた江古田から引っ越した。よい機会なので、よく行っていた豆屋と喫茶店などについて書こうと思う。

 

江古田珈琲焙煎所

新江古田駅から徒歩約6分。豆屋さんでもあり、喫茶もやっているこぢんまり系のお店。ほとんどここで豆を買っていました。期間限定で出ていた、ペルーのノースアンデス ブルー SHB が好きだった(と思う)。喫茶ではトーストメニューがあり、レジ横には手作りのビスコッティなど置いてあってついつい買ってしまうことが多かった。

 

炭火焙煎珈琲店 ぶな

江古田駅から徒歩約4分。地下にある喫茶店。壁一面にカップが並んでおり、コーヒーを頼むと選ばせてくれる。特にこだわりがなければ「おまかせで」でも大丈夫。カウンターと大きなテーブルと、中くらいのテーブルが2つほどあった記憶。落ち着いていて穏やかな空気感でいながら公共の空間感もあってとてもよい。チーズケーキもおいしい。物書きなのかな?と思うような作業風景を醸すおじさんがいたりした。カップが並んでいる壁と逆側の壁には、本がずらっと置かれている。漫画もあったので、『きょうの猫村さん』や『オバケのQ太郎』を読んだ。

選んだカップを並べてみる。コーヒーだけではなく、ぶどうジュースも飲めます。



江古田HUT

江古田駅から徒歩約6分。商店街を新桜台駅のほうに歩いていくと現れるコーヒー&日本茶のスタンド。週末にしか開いていない。実は新桜台駅のほうが近い。その名の通り小屋のような見た目で、散歩をしていたときに見つけたのですごくラッキー感があった。

 

MUST HAVE COFFEE
江古田駅から徒歩約5分。ぶなやHUTとは逆側にある洒落たカフェ。私が引っ越す数ヶ月前に新しくできていた。「MUST HAVE COFFEE →」とだけ書かれた看板が急に道端に置かれるようになって気にはなっていたものの、引っ越す寸前にしか行くことができなかった。コンクリート打ちっぱなし系、お店の内と外が曖昧になっているような作りでいい感じ。私が行ったときは、若めのお兄さんたちが運営していた。元気に挨拶されて嬉しかった。ボリューミーなサンドイッチもおいしかった。(写真なし…!)

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ちなみに、大江戸線 新江古田(しんえごた)駅と西武池袋線 江古田(えこだ)駅間は徒歩で9分もかかる。前者は中野区にあり、後者は練馬区にある、という違いもある(よく見ると濁点が付く場所も違う)。とてもややこしいけど、「江古田珈琲焙煎所」だけは新江古田駅のほうが近い。もし江古田エリアに用事ができて、このコーヒー記録を参考にされる場合は気をつけてほしい。

小中学生のときの運動事情

最近自分に対して虚しい感情が多いので、私が一番輝いていたと思う、小中学生のときの運動事情について書きました。「バスケ編」と「走り編」(?)で分けています。

小学生時代

バスケ編

  • 幼稚園からの友だちに誘われ、小1からミニバスチームに入る(弱い、試合に出られる最小人数しかいないチーム)
  • 高学年になったときそのチームのキャプテンになる
  • 市の選抜チームに参加(各地域のチームから2人くらい選ばれる)
  • 背が低かったので、ボール運び&回しをする担当だった
  • 足も速かったので、「速攻」は得意だった
  • ディフェンスも得意!
  • ただ、ゆるいチームだったのでポジション名は「センター」と「フォワード」しか知らなかった
  • 選抜チームの練習で「あなたは"ガード"ね」と言われてディフェンスしかできないポジションなのか???と困惑した
  • 小学生女子の集まりなので、いざこざが色々あってつらいこともあった 結構あった しんどかったな〜

走り編

  • 小1〜4まで、学校の持久走大会で1位を獲り続ける
  • 2〜3位を獲り続けていたいじめっこに冗談っぽく「1位、譲ってよ」と言われてムカつく
  • 小5からはいじめっこ以外のダークホースが現れ1位の座を奪われる 私は1位を獲れなくなるが肩の荷が降りた感じがした
  • 小5〜6くらいで、市内の学校対抗の駅伝大会メンバーとなり練習に参加する
  • 運動会ではリレーでアンカーを走ることが多かった
  • 市のマラソン大会(3kmくらいだったが)によく参加した
  • でも長距離はすぐ息が上がり苦しいので嫌いだった ダッシュが好きだった
  • ハードル走で何かしらの大会に出た(体育の先生に声をかけてもらった)

中学生時代

バスケ編

  • そのままバスケ部に入る
  • 1年の頃はザ・1年という感じの練習だった(1年は外練 など)
  • 2年になると、強いミニバスチームからの後輩がたくさん入ってくる
  • 後輩とともに、その父親がコーチみたいになって指導に幅をきかせてくる 嫌
  • 1年がうまいので、「1年は外練」の概念がなくなる
  • ミニバスのときは練習がゆるかったが、後輩父の指導によりハードに
  • もちろん先輩の中にも強いチームから来た人はいたので、試合を想定した練習中にうまく立ち回れないと「そこ邪魔!」みたいな言葉を吐かれるようになって凹む 今までは牧歌的だったので
  • 副部長になる 後輩には結構慕ってもらっていた(多分厳しくなかったから)
  • 他校との合同練習中、向こうの顧問に「ディフェンスうまいね」とお言葉をもらう あまり反応をしない私を見て、うちの学校の顧問が「素直に喜べばいいのにw」とツッコミを入れてくる

走り編

  • バスケ部以外に、体力テストの1000mを4分以内で走ると自動的に入れられてしまう「駅伝部」に参加させられる
  • 陸上部の顧問が長なのでかなり本格的
  • 7:30〜8:00 朝練
  • 8:00〜はバスケ部の朝練に移動する(陸上部以外で参加している生徒は自分の部活に向かう)
  • 肺を鍛えるため、冬は布マスクをしてジョギング(めちゃくちゃきつい)
  • 雨の日は校庭が使えないので校舎内の階段をダッシュで昇り降り(3階?分を20周とか、その後筋トレ)
  • 夏休みはほぼ毎日、1時間だけの集中した練習(午前中の涼しい時間)
  • 夏休みは校庭ではなく、学校の近くにある400mトラックのグラウンドを使用
  • 基本は200mダッシュを12本(男子は15本)
  • その200mダッシュはタイムが測られていて、何秒を切らないと1本追加、みたいないかつめのメニュー
  • 駅伝大会は秋か冬だったので、2学期くらいから掃除を免除されてその分の時間を練習に充てられる
  • チームとしては市の大会でいい順位を出して県大会にも出た(なお私は補欠だったので気が楽だった!)
  • 県大会のコースの試走・練習として、公欠で何度か授業を休んで現地に連れて行かれた 楽しかった
  • 県大会は山のほうで行われたのでやっぱり山のほうの学校が強い

番外編

  • 中学のとき、校内の陸上競技大会で走り幅跳びの記録を残す
  • 教育実習で母校に行ったときもその記録がまだ塗り替えられていなかった

存在認知の話

まずは私の現状から。もともと仕事を頑張っているほうではない。頑張りたいとも思っていない。最近は業務も落ち着いてしまっていて、上司からはほとんど放置されている。「いやいや、仕事なんて自分から探すものでしょう。上司や環境のせいにしてたらよくないよ」という声も聞こえてくるが、「それはそうだと思っているよ」と一筆書いた上で一旦無視させてほしい。

2年と少し前に今の職場に転職してきた。訊かれてもいないが、転職の経緯はあまり言いたくない。前職とは業界も職種も異なっていて、未経験からのスタートだった。で、今でも未経験レベルの仕事しかできていない。また悪魔の囁きが聞こえてくる。「ラクならよくない?しかも上司から放置されてるって、めんどくさいこと言われないんだからいいじゃん」。そう思えたらいいのだけど、結構堪える状況なのだ。どういうことかというと、自己肯定感や自己有用感がダダ下がりする。思考力がなくなる。抑うつ状態が常になる。ハードワークでそういう状況になってしまうのは理解が容易いと思う。だが、放置されていて抑うつ気味になっていくことには疑問を感じる人はいるだろうし、甘えだと思う人もいるだろう。

ちなみに私の上司は40歳を超えているみたいだけど、私が初めての直属の部下らしかった。だから放置されてしまうことは仕方がないのだろう……とは思いたくないし思っていない。

ここからは私の被害妄想とも思われるフェーズに入っていく。

上司に放置され続けると、ほかの社員からも自分の存在を認知してもらえていないのだろうと思い始めてしまう。今の職場は原則週5でオフィスに出社がルールだ。大人しめの人が多く、執務フロアはシーン……としていることが多い。エレベーターやトイレ前で他の社員と鉢合わせしたりすれ違ったりしたとき、挨拶がないことがある。私は今まで愛想だけでやってきたみたいなところがあるから、必ず目元をにこやかにして挨拶をするようにしている。「敵じゃないですよ、どうも」という気持ちがあって、反射的にやっているところもある(まあ自己防衛的なところもある)。それにもかかわらず、目を合わせてくれない人もいるし、「なんで俺に挨拶してきたの?」みたいな驚きの目をしながら会釈で済ませてくる人もいる。さすがに立場が上の人になると、「最近どう?」とか「お昼何食べるの?」と話しかけてくれるが、7割くらいの社員が前述の通りである。

(余談)

前職では、小さな会社に所属しながら、大きな会社のチームに派遣のような形で投げ込まれ、毎日そこに出社していた。

チーム以外の人は知らない人もいっぱいいたけど、廊下で会えば初対面の人でも必ず挨拶をしていたし、向こうからも返ってきていた。ちょっとしたことでも「ありがとうございます」と言ってもらえて嬉しかった(私の立場が低すぎたから過剰に感謝されていたというわけでもなく、プロパー同士でもそんな感じだった)。社会人って、こんなにちょっとしたことでも敬意を払い合うんだな。すごいな、気持ちがいいなと思っていた。

(余談終わり)

「挨拶を返してくれない人」について誰かに話すと、「その程度の人だからと相手を割り切るのが正解」みたいな答えが返ってくる気がする。私はそこを諦めたくないのだよ。というか、じゃあ、段々とすり減っていっている私の精神はどうすればいいのですかと思う。私は別に、彼らと濃密なコミュニケーションを取りたいわけではないのだ。彼らのことを知りたいとも思っていないし、自分のことを知ってほしいとも思わない。私が体育会系で、元気に挨拶することが是だと思っている人というわけでもない。

心理学でいうところの「ストローク」を欲しているのだ。「ほかの人の存在を認める言動」ということらしい。肯定的かつ言葉によるストロークで代表的なのが「挨拶」だ。私はただ、存在を認めてほしい、というか「nemnemmさんのことを認知していますよ」というサインがあれば十分だと思っている。それだけで、このひねくれた精神は少しほどけるのかなと思うのに、ストロークが活発でない環境に居続けることで余計につらくなってしまっているのだと気づいた。ストロークという言葉を知ったときに泣いてしまった。「挨拶が蔑ろにされている環境にイラついている自分」が、”行き過ぎた真面目”や”マイルール押しつけ気難し野郎”なのかなと思っていたけど、社会生活や、健康な精神でいるためには必須の概念なんだなとわかってホッとしたからだ。

 

▼おまけ その1

「自分や相手の存在を認める」というキーワードですぐに思い出すのがこの記事。

https://keitahaginiwa.com/1248/detail

私が好きなミュージシャン、サックス吹きの横田寛之氏を取り上げたものだ。

取材者である森綾氏が、自分のバンドに横田氏を呼び、セッションをしたときのエピソードが書いてある。

一緒にやらせてもらってわかったのは、横田寛之はとても優しくて厳しい人だ、ということだった。テクニックの差を認識し、それでも他のプレーヤーたちの音を引き立て、なおかつ自分の良さも出すこともきちんとする。全体を見てくれている、気持ちのいいソロ。かといって「どや!」的な音は一切出さない。

 彼は言った。

「セッションは自分がここにいる意味、その人がここにいる意味が、はっきりわかるようにするのが一大テーマ。一緒にやっている人がいてもいなくてもよくなってしまったら、ぼくがいる意味もないでしょう」

私が書いてきた話とは違うけど、セッションは自分のテクニックをひけらかしたり、相手の慣れなさを晒しあげたりする場ではない(そうであってほしい)。「つつがなく楽しくできて、ストレス発散もできてよかったね」というインスタントなものでもなく、お互いが”そこにいる意味”を認め合えるような空間の醸成には、ユートピア感を覚えるし、強く惹かれるものがある。

 

▼おまけ その2

学生のときの先輩が、「俺の存在を認めてくれるのはセンサーで自動開閉するトイレの蓋くらいだ」って嘆いてたのは、哀愁があって結構好きだった。

コーヒーとの付き合いかた(nemnemmの場合)

この記事は Coffee Advent Carendar 2021 10日目の記事です。

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コーヒーを淹れることも飲むことも好きなのに、生まれもったお腹の弱さと冷え性、月のバイオリズムによって、コーヒーを飲む頻度を厳しめにセーブしているきらいがある(飲まない日のほうが多い)。飲みたいけど飲まないほうがいいな、でも飲みたいな、いや、今日はやめておこうなどと逡巡する。葛藤に負けて飲んでしまうと、そういうときはほとんどお腹を壊す。好きなものを手放しで楽しめないのはちょっとつらい。わたしはお酒についても「好きだけど少ししか飲めない人」であり、それととても似ている。

そんなわけで、デカフェの豆を見つけたら買ってみるようにしている(気休め程度に)。最近は「二足歩行 coffee roasters」の「デカフェ」を買った。
(余談→自分の腕&挽き目が影響していそうだが、お湯がなかなか落ちなくて淹れるのが少し難しかった!)

体調が悪いわけではないけれど何か違和感があるな、くらいの日でも、コーヒーから離れてルイボスティーハーブティーを選ぶようにしている。コーヒーと同じように、茶葉のフレーバーテキストを見比べて、香りと味を想像して買うのが楽しい。「JUST T(ジャストティー)」というブランドのものが好きで、いろんな種類を飲んでみたいと思っている。

ただ、「コーヒーを自宅で淹れられている状態」は、自分の精神状態に余裕があって、良好であることのバロメーターでもあるので、もはやどうしたらよいのかわからなくなってきた(なんだか色々と矛盾している気がする)。週末コーヒーラバーとして生きていく、でいいか〜

「体調を気にしながら飲むとか……」「嗜好品なんだから、お腹を壊すくらいなら最初から飲まなければいいのに……」と言われそうではあるものの、コーヒー好きを公言している人たちの中にも、このくらいの距離感を持って楽しんでいる人はいるのかな〜と気になったので、まずは自分のことを書いてみました。

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唐突な、コーヒー関連の今後やっていきたいこと備忘録
・旅先でコーヒー豆を買う(旅はあまりしないけど)
・お気に入りのコーヒーのおとも(お菓子)を見つける
・スパイスコーヒーを飲む(まだ一回しかない)
・「2016/」(有田焼)のマグを買ってコーヒーを飲む

人目を気にすることについて / 行きたいお店のストックがない

人目を気にすることについて

一人で行動することが染み付いていると、「誰かといると自分の行動に制限がかかると勘違いしてしまう」という弊害が生まれる。私は友人と出掛けるときに自分の買い物ができない。「ああ、こういうものを選ぶのね」とセンスを評価されるのが怖い、とかそういう具体的な理由やトラウマがあるわけではないのだけど、なんとなく制限されている気がする。時間的、物理的に制限されるのではなくて、精神的に自分に制限をかけてしまう。逆に、自分の存在が、相手にも制限をかける種になるとも思い込む。だから、友人とは「買い物」名目のお出掛けはほとんどしたことがない。

例えば、自分だけが行きたい場所があってそこに友人を連れて行くとき、「気乗りではないのに付き合わせていると思ってしまう」というゆがんだ認知もある。これは一瞬、謙虚な発想に思えるが、相手の気持ちや状況を「気乗りではない」「自分に付き合わせている」と勝手に思い込むことこそ傲慢なのでは、と省みたりもする。

自分は人の目を結構気にするほうなんだと思う。外見よりは内面のことで、「自分が何をしたいか」を人に知られるのが気恥ずかしいのだと思う。それか、「何がしたいかの意思がないことがバレる」のが嫌な場合もある。

行きたいお店のストックがない

複数人でご飯に行くことになって、お店の候補を挙げることを苦痛だと思っていない人はどれだけいるのだろうか。私は店選びがあまり得意なほうではないので、じっくり考えるというよりかはサクッと調べて先に候補を投げてしまうパターンが多い。後回しにするほど自分にプレッシャーがかかる。

そもそも行きたいお店のストックがない。行きたいと思ったときにはもう一人で行くし、そんなに食に興味がないので気になるお店の母数も少ない。

定石である「なにか食べたいものありますか?」の質問も自分にはかなり無理がある。それを訊かれたら多分「タイ料理!」とかしか答えないと思う。とにかく食の気分にバリエーションがない。毎日同じものを食べても大丈夫だし、一時期はなかやまきんに君の食事メニューを真似して鶏胸肉・ブロッコリー・にんじん・オクラ・アスパラ・ゆでたまごミニトマトだけで毎食お腹を満たしていたときもあった。

そんなことを考えながら見たこの動画の、柏木由紀さんの飄々とした&堂々たるスタンスがすごいなと思ったという話。


www.youtube.com

読んでいる本のはなし

若松英輔さんの本をまた新しく読んでいる。なんでかわからないけど、どこかの時点でファン的な存在になって、これまで何冊か読んできた。今読んでいるのは『「生きがい」と出会うために 神谷美恵子のいのちの哲学』。精神科医でもあった神谷美恵子の著書『生きがいについて』を、若松さんの言葉で紡いだ本。

若松さんの文章は、背中を撫でられているみたいで安心感を得られることもあれば、時に感情を揺さぶられることもある。それがもう心地よくて、今回も勝手に期待して読み進めようと思った。だけど今回は、神谷の文章にひどく惹かれている気がする。一章のはじめに、『生きがいについて』の冒頭部分が引用されている。

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。

こちらもおまけで引きたい↓

きき手がだれもいないとき、または苦しみを秘めておかなくてはならないとき、苦悩は表出の道をとざされて心のなかで渦をまき、沸騰する。胸がはりさけんばかり、ということばはそれをあるがままにあらわしている。

これらの文章を読んだときに、「ああ、もともとの本も読まなければ……」という、嬉しい使命感を得てしまった。読むぞ。

『「生きがい」と出会うために』を買うとき、少しだけ躊躇した(朝、起き抜けにポチったとはいえ)。わたしが漠然とイメージしている"生きがい"は、自分とは遠くかけ離れたものだと思っているし、別に無理して出会う必要もない、としていたものだからだ。

でも、引用されている神谷の文章には、若松さんがよく言っているかなしみがある。生気と深いまなざしもある。そうやって肌に馴染みながらも、なんだか体腔に手を差し入れられて、じかに内臓を触られているかのような感覚になる。そんな、「意味が全然わからない」と言われるかもしれない"ド大袈裟"なたとえをしてしまうくらいの何かがあると思った。本当によくわからないたとえだけど、わりと自分では納得しているのでよい。

この本もまた繰り返し読むことになりそう。